30余年前、北京に留学していた頃のよもやま

 こんにちは。ジブンゴトライターのさくらです。
今回は若かりし頃の中国での貴重な体験について書いてみようと思います。

中国語を学びたい

 今から30余年前、バブル期に短大を卒業した私は誰もが知る日常生活用品の某企業でOLとして誰でも出来る仕事をしながら退屈な日々を送っていた。

 入社後1年程経過した頃、社内で中国語を学ぶサークルに誘われた。
 発起人が慶応卒のナイスミドルのイケてる上司(その後社長にまで出世した)であった為、良いところを見せようと事前に夜間の語学学校に通い始めたのが中国語を学ぶきっかけだった。何とも不純な動機だが中国語にドはまりしてしまった私はサークルでは物足りなくなり夏季休暇や有休を利用して中国への短期留学を経験した。1988年には退職し本格的に現地で生の中国語を学ぼうと一人で段取りをして北京に渡った。23歳の春だった。

外国人専用の寮での生活

 1989年3月上旬。
 北京空港に降り立ち大学に向かう為のタクシーに一人で乗るのは初めてで、少し怖かった。車窓から見る風景は舗装された道路から砂利道に変わり、道の両側には沢山の柳の木が植えられ風になびいていた。「このままどこかに連れ去られたらどうしよう」等とバカなことを思いつつも留学の実感がいた。親の心配をよそにして大きな決断を実行に移した自分を少し誇らしく思っていたのを覚えている。

 無事に大学の寮に到着し事務手続きを済ませた後、通された二人部屋には二人分のベッドと本棚・机があるだけで床は打ちっぱなしのコンクリートだった。
留学生は日本人の他に北朝鮮やアフリカ、ブルガリア等からの若者が来ていたと記憶している。共通言語は北京語でお互いコミュニケーションを取っていた。滞在先は工業系の大学だったので必ずしも語学を学びに来ている訳では無かったと思われる。

 バブル期であった当時、留学といえばアメリカやフランス、イギリスなどが主流である中、中国留学を志した日本人は自分を含めて「変わり者」ばかりだった。ルームメイトは2回変更したが最初のルームメイトは某宗教の熱心な信者で私が少しでも体調の不調を伝えると「手かざし」のようなおまじないを施したり、日本から持参した「祈祷セット」(私にはリカちゃん人形ハウスに見えたけど)を広げ念仏を唱えるのに辟易し、程なくしてルームメイト変更願を申し出て他の女子に変えてもらった。

当時の中国のトイレ、入浴、食事の事情あれこれ

 寮のトイレと洗面室、シャワー室は共同だった。日本人の衛生感覚からすると正直汚いと感じるレベルであったが慣れるしかないと覚悟を決めた。

 トイレは和式で「マイ・トイレットペーパー」を都度持参する。(トイレットペーパーは中国語で「手紙」と書く。)
当時の中国の一般的トイレは仕切りが無く日本で言う「側溝」のような所にまたがり皆平気で用を足していた。私達外国人向けの寮や外国人向けのホテルにはかろうじてドアが付いていたので良かったが時々出かけた観光地の一角のトイレにはドアが無かった。これだけは慣れることが出来ずに我慢して通したものだ。

 入浴はシャワーのみで常時お湯が出るとも限らず酸性の水質なのか頭頂部の髪の毛が変色してしまった子がいたっけ。

 トイレと入浴には難儀したものの寮の食堂で出される食事は美味しかった。
本場の中国料理を安く大量に食べられ特にトマトと卵の炒め物やニラと豚肉の炒め物が美味しかった。食器はバケツのような形をした「マイ食器」を持参してよそってもらい好きな場所で食べる。白米には小石が混ざっているのが日常的で日本のふっくら炊きあがった米が懐かしく感じられたものだ。

街中の様子と外貨制度

番号しか書いていないバス停
番号しか書いていないバス停

 庶民の生活の移動の主流はバスか自転車だった。
バスには行き先ごとに番号が表示されていているのだが間違った番号のバスに乗るととんでもない場所に到着するので注意が必要だった。バスの本数は少ない上、間違ったバスに乗れば全然違う場所に行ってしまう為、私達留学生も自転車を買うことにした。当時の自転車のクオリティは低くて漕ぐのは大変重く疲れたが自由に行動することが出来るようになったことで休日には自転車で街中に出かけることが増えた。

値切って買って、最後には盗まれた自転車
値切って買って、最後には盗まれた自転車

 大通りから一つ路地に入ると地震に弱そうな土壁で出来た平屋が並び子供たちが遊んでいる姿があちこちで見られた。驚いたのは乳幼児が穿くズボンだ。お尻に大きな穴が開いており、しゃがめばそのまま用を足せる仕組みなのでパンツを穿いていない。伝統的且つ究極のトイレトレーニング方法か。前も後ろも剥き出しなので、すぐに用足しが出来てオムツかぶれも防げるという優れモノという訳だ。
また街には「あおぞら歯医者」や「あおぞら床屋、美容院」つまり屋外営業の歯医者や床屋が沢山あったがさすがに利用する勇気は無かった。

 当時の中国の貨幣には庶民が一般的に使う「人民元」とそれなりの身分や外国人しか入手できない「外貨」の二種類があった。外貨でしか購入できない物には電化製品が多く一般市民は「外貨」を非常に欲しがっていた為買物の際に外貨で支払えば人民元での支払いよりも安く購入することが出来た。

 外貨を簡単に入手できる私たち外国人留学生は商店で値引き交渉する時や換金する際に「取引き」することを覚えた。街中にある何の変哲もない竹籠を売る店が人民元と外貨の換金場所であることを知った。
電卓片手にその日のレートを駆け引きしながら人民元と外貨を交換しては懐を温かくして「シシカバブー」という焼き鳥やパンダの顔のアイス、薄焼き卵でネギやショウガを巻いた日本でいうクレープのようなおやつ、化粧品や洋服を屋台で購入し購買欲求を満たしていた。

こういう場所で物欲を満たしていた。
こういう場所で物欲を満たしていた

 しかし当時の中国の街中には「おもてなし」的な接客が一切なかった。外国人向けのホテル以外の国営店で働く彼らの労働意欲は低く声を掛けても無視されたり見たい商品をケースから出すように頼んでも目の前にある商品を「無いよ」と言われることが当たり前だったのだ。

他国留学生や中国人女学生との交流

 生活に慣れてくると休日は日本人だけでなく朝鮮やアフリカからの男子留学生と行動を共にすることが増えていった。アフリカからの留学生バン君からは「結婚してほしい」と熱烈なアタックを受け困惑したが今思えば自国ではかなりの身分だったのではないかと思うと惜しいことをしたのかもしれない。

友達のバンくんと
友達のバンくんと

 北朝鮮から来ていたキム君とパク君は「犬の肉」を振る舞う店に連れて行ってくれた。本来私は犬が大好きなので非常に抵抗が有ったが「犬の肉」のスープは意外に美味しかった。彼らの政治権力者に対する尊敬の念は尋常でなく、危うく思想教育の場に連れて行かれそうにもなったなぁ。

 日常会話には不自由しない程度の北京語を話せたので近隣の中国人女学生の友達も出来た。彼女たちは日本語を学ぶため田舎から北京の大学に入学しておりお互いの言葉を教え合いながら親交を深めたものだ。彼女たちの寮の部屋は私たちの部屋と違って狭く、8畳程度の部屋に置かれた3つの2段ベッドの寝床スペースだけがプライベート空間だった。いつか日本で仕事をするのが夢だと話す彼女たちの瞳はキラキラ輝いており、山口百恵が大好きだと言って彼女の歌を日本語で歌ってくれたっけ。

天安門事件勃発に向け不穏なムードが漂い始める

ものものしくなってきた
ものものしくなってきた

 学内や街中の雰囲気に変化が生じてきたのは4月中旬ころだったと思う。
予告なく授業が無くなったり、授業が有っても教師が当時の政治の中心人物の名前を黒板に書いて「〇〇を油で揚げよう」と私たちに唱和させたりした。
大学構内でもデモの列を度々見かけるようになった。親しくなっていた中国人の女子学生が私の部屋を突然訪ねて来て、

「これから天安門広場のデモに参加するの。もう会えないと思う。楽しかったよ。日本で会いたかった。」
そう言い残して記念にと彼女が大切にしていた辞書をくれた。

辞書をくれた友達と
辞書をくれた友達と

 現地では情報規制がされていたので私達留学生には天安門広場で何が起こっているのか詳しく分からなかったが海外メディアは詳しく報道していたので日本にいる両親や友人達は大そう気を揉んだそうだ。以前値引き交渉に成功して入手した自転車は盗まれ、学内デモが増え食料は乏しくなっていった。

※天安門事件:
1989年6月4日、天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し軍隊が武力行使し多数の死傷者を出した事件(Wikipediaより)

 街中では一般市民によりバスが燃やされたり軍の戦車が倒される光景をあちこちで目にするようになっていた。やむを得ず街に行く際には外国人であることを証明するためにパスポートを持参しなければ危険であった。
留学は1年を予定していたが日本との電話も通じにくく、これ以上北京に残るのは危険だと感じられた。

 留学生それぞれが帰国の途に就き始めたのだが大学の事務局の職員は居なくなっていたので自力で帰国の途に就くしかなかった。当時ワーキングホリデーを利用しオーストラリアに滞在していた彼氏と何とか電話で話し合った後、彼が北京まで迎えに来てくれ共に日本に向かうことに決めた。

帰国まで

 彼とは大学の寮を出た私と空港で合流したが日本に向かう航空チケットをすぐに入手できなかった。仕方なく開いていたホテルに移動し宿泊交渉を行い、滞在して少し様子を見ることにした。
ホテルでさえも食料は減り従業員の姿もまばらになっていった為、数日後には再び空港に移動し航空チケット入手出来るまで待機しようと話し合った。
けれども今度は空港に向かうタクシーの手配に手間取った。

 その時に役立ったのが持参していた外貨だった。

 外貨を欲しがったタクシー運転手は通常の3倍の値段のタクシー料金を提示して来た。外貨での支払いなら空港に運んでくれると主張したのだ。彼らにとってはこの混乱は外貨を入手する絶好のチャンスだからだ。交渉を成立させ到着した空港ロビーには外国人が溢れんばかりに詰めかけており我れ先にチケットを入手しようと必死であり究極に「密な状態」だった。

 二日ほど殆ど食べるものも無く空港で夜を明かして二人分の航空チケットを入手したものの乗りこんだ飛行機はなかなか離陸せず、本当に帰国できるのか不安でいっぱいだった。

あれから30余年

 当時は中国語を学ぶ人は少なく、中国語力は希少価値になると考え会社を辞めてまで留学を決断した。現地で身に付けた語学力を活かして貿易や通訳の仕事に就けたらと思い頑張った。
しかし皮肉な事にその語学が一番役立ち、フル活用できたのは中国を脱出する時であった。タクシーの運転手やホテルとの値段交渉の場面では、人民元と外貨を換金する際の取引きで身につけた「生の中国語」が私と彼の命を守ってくれ、無事に帰国の途に就き今が有るのだと思っている。

 その後当時の「彼」と結婚し生まれた長男の誕生日が天安門事件の日と同じ「6月4日」なのは偶然だと思えない。毎年この時期になると天安門事件前後の北京での生活に想いを馳せている。

 法外な料金を申し訳なさそうに提示してきたタクシー運転手、お別れに辞書をくれた女子学生、本場の水餃子をご馳走してくれた教授、換金を黙認してくれた公安や店の人達は元気にしているのだろうか。そして北朝鮮やアフリカ、ブルガリアからの留学生達もどうしているかな。携帯電話など無かった時代の事である。連絡を取るすべも無いのだ。

 今、世界中の人達がコロナ渦で生活している。彼らもまたどこかで当時の事を思い浮かべているのかもしれない。